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表ブログでは言えない五十路びんぼーおひとり様の心のつぶやき
2016年02月01日 (月) | 編集 |
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私は信仰者ではないけれど心の拠り所として神様に手を合わせる事を日課にしている。

私の様な誰にも頼る事の出来ないおひとり様が1人で生活が出来ているのも「目に見えない何か」には助けて貰っている・・・そう思う事で辛くとも頑張っていける心の支えにもなっているからだ。

お正月になるとこぞってTVでは初詣のニュースか放送されるが、とても違和感を感じてならない。

神様へのお参りって年一の訪問だけで良いのかなって

仏壇に手を合わせる事も無く、ただ供物を置くだけ、神棚にいたっては手を合わせるのも新年にお神酒をあげる年に一度だけ・・・という家も多いよう

心が広く慈愛に満ちた神様はそれでも良いと赦して下さるのかもしれないが、毎日お参りしてくれる人と年に一度来るか来ないかの人でも神様の慈愛は平等なのかなと
こういう事を考える時点で私の心の狭さが露呈しているようなものだけど

早逝した元同僚は信仰心にとても厚く、神棚と仏壇に毎日手を合わせ、彼岸と盆には墓参りをして先祖を敬い、自分に厳しく、自宅介護で両親を看取り、自分も逝ってしまった。
その訃報を聞いた時「神様ってなんなのだろう」と思った事は事実

でもそういう存在に毎日手を合わせる事で、自分の心も救われているのも事実だったりする。

今のアパートに越すことになった時、確認したのが神棚だった。
残念ながら、神棚自体が無いし、賃貸の壁や天井に釘を打ちつけて神棚を作る事は躊躇われたので、タンスの上に白い紙を敷き、宮形を置いて生の榊を飾り、1日と15日には取り換えるようにし、電気の灯明を灯し、水をあげて手を合わせている。

よく枯れてしまい散らかるからと仏壇や神棚に造花や榊の模造を飾る人がいるけれど、なんかそういうのを見るたびにただ形式化され、そこには祈る心が無く神様がいないようで悲しくなってしまう
結局、信仰心とはその人の心の持ちようなのだと思うけれど、

「何もなかった1日」じゃなく
「平穏無事に1日を過ごさせてもらった」

そう思えるように、敬い感謝する気持ちを忘れないためにもこれからも手を合わせていこうと思っているけれど、なかなか参拝には行けないでいる。
こんな私でも神様は見捨てないでいてくれるのかな・・・と思いながら、今日も手を合わせている。

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